「あんちゃんと一緒に、『歎異抄』を読みたい。」
2014 年年末、僕は、自分自身に心底うんざりする出来事に、直面し続けることになった。
こんな時には、また、これまで何度となく読んできた『歎異抄』を、また、開きたくなる。自らを「罪悪深重の凡夫(ざ いあくじんじゅうのぼんぶ)」だと言いきった親鸞(しんらん)の言葉を、もう一度、辿りたくなる。
しかし、一人で読んでいても、また自分に都合のよい理解でおわってしまうのではないか。それは嫌だ。
そう思った時、浄土真宗の僧侶である、あんちゃんこと藤岡延樹氏と一緒に歎異抄を読むということを思い立った。
以下、案内をご一読願いたい。(fence works 森洋介)
◉ 日時
2015 年
1 月 26 日(月)19:00-22:00 場所 studio CAVE(大阪府西区)
2 月 23 日(月)19:00-22:00 場所 studio CAVE(大阪府西区)
3 月 23 日(月)19:00-22:00 場所 楷定寺(大阪府高石市)
●当日は...
あんちゃん(藤岡延樹)、森を中心に参加者が半円で囲み、森から、あんちゃんへ問答を挑みます。
機に応じて橋本久仁彦が問答に加わります。
<森洋介の問いを受けてくれる人>
藤岡延樹(浄土真宗本願寺派楷定寺副住職、Re:Vision! 代表)
20 代をミュージシャンとして過ごした後、大学で伝統・近代仏教学を学び、
大学院在学中に恩師である故西光義敞先生の「真宗カウンセリング」に出会う。 真宗カウンセリングの仲間とともにつくる「育ち合う場」としての「Re:Vision! 」代表となる。 フェンスワークス・フェローとして、フェンスワークスの仲間とも遊ぶ。 だいたいいつも真っ黒い服を着て、あやしい雰囲気をプンプンさせている。
<ゲスト>
橋本久仁彦(口承即興~縁坐影舞舞踏劇団「坐・フェンス」坐長)
円坐守人として、縁坐影舞の坐長として、既成の心理学やら「自己実現」やら「癒し」やらを全部ぶっ飛ばして、ただ、生きて死ぬという人生の事実に正面から向き合い続ける姿を、僕(森) に見せ続けてくれている。
故西光義敞先生、「真宗カウンセリング」との出会いを機縁として、仏教についても造詣が深 く、ほんとに面白く仏教についても語ってくださる。
<あんちゃんに問いを挑む者>
森 洋介(フェンスワークス)
ふだんは、円坐守人であったり、縁坐影舞のヒトガタ役者だったり、
人生の先輩に戦争体験をお聴きする「円坐と縁坐舞台の旅」を主宰したりしている。 『歎異抄』との出合いは、故西光義敞先生との出会いのなかで、こんなに静かに坐れる人になり たいな、そのためには浄土真宗のこと知りたいなと思ったのがはじまり。もう 20 年くらい前だ。
◉ 参加費
9,000円(1回3000円×3回分 )※当日受付時にお支払い下さい。
◉ 定員
定員 12 名(3 回連続講座を、同じメンバーで深めていきます。クローズドのグループです。)
◉ 申し込み
メールにて、件名「『歎異抄を読む』申し込み」、お名前、ご連絡先、を下記までお送りください。
申し込み先メールアドレス
fenceworks2010@gmail.com
ちょっと長いけど、思いのたけ、書きました。(森洋介)
最近、ええかっこしいの自分がはっきりみえて、なんか、少し、吐き気がした。
この前も、自分は、ひと(他者)よりちょっとはデキるのではないかと、うぬぼれている自分が、(他者からはとっく
にみえているだろうが)自分でもチラチラみえて、うんざりした。
さらに最近は、こんなこともあった。
「友達がほしいなあ」と口では言いながら、いざ自分にかかわろうとしてくれているひとがいても、けっこう冷たくス
パっと切ってしまう、冷酷な自分が、いた。
切られた友から「あなたに触れられなくなった」と告げられても自分が切ったことに最初ピンと来ず、「自分は何もお かしいことをしていない」とカッコをつける。
でもなんかおかしいと思って死に物狂いで自分の殻から抜け出し、確かに自分が切ったことを視界にとらえると、そこ で突然、僕に寄ってきてくれたのに僕に切られた友の“哀しみ”が、ドッと僕に襲いかかってきた。涙がとまらなかった。
本当にごめんなさい。ああ、気づくのが遅い。
あきらめず僕と向き合ってくれた友に、救われた。
なんで、僕は、自分が駄目駄目な人間であることが明白であるにもかかわらず、そうでないようにふるまってばかり
なんだろう。それこそ、他者も自分も欺く、極悪人だ。
...はい、今、僕は、自分のことを「極悪人だ」と書いたが、まだ、本当にそう思っているのか、怪しいもんだ。
...言葉遊びをしているだけではないのか?ああ?
こんなことを考えていると、僕は、自らを「罪悪深重の凡夫」だと言いきった、親鸞の言葉を、もう一度、たどりた
くなる。これまで何度となく読んできた『歎異抄』を、また、開きたくなる。
でも、一人で読んでいても、また、自分に都合のよい理解でおわってしまうのではないかと、そう思えた。
だからこそ、今も僕は、こんなところでグルグルもがいているのではないか。
あんちゃんと一緒に、歎異抄を読みたい。そう思った。
あんちゃんこと藤岡延樹氏。浄土真宗の僧侶、である。
僧侶であるから、歎異抄のことをよりしっかりと教えてくれるのではないか。そんなことも思う。
しかし、浄土真宗の僧侶であれば誰でもいいという感じはまったくしない。
あんちゃんに、問いたいのである。
あんちゃんは、僕より 2 歳年上の、40 歳代半ばの、「チョイワルおやじ」である。カッコいいのである。まったく、 「カッコつけているいやらしさ」を感じさせない、カッコよさなのである。「僕、バカだから。」と、ニカッと笑って言
う。いろんな仕事をやっているけれど、「これからは、ただ遊ぶ予定。」とさらっと言う。「罪悪深重の凡夫」として突 き抜けると、こんなふうにカッコよくなるのか、と思う。
僕があんちゃんのようになれるはずもないけれど、どんな心境で生きているのか、聞きたいことは、いっぱいある。
ここまで書いてくると、ひとつ、最近のあんちゃんの姿が浮かんでくる。ある語りあいの場での、あんちゃんと、くに ちゃんこと橋本久仁彦氏の言葉のやりとり、佇まいが、脳裏に浮かんでくる。
くにちゃん曰く、「あんちゃんと言えば、酔いつぶれて場末のキッタナイ便所に顔突っ込んでオエーっとやっている話 を思い出すわあ~。」
あんちゃん、 「あ、はい、そうですね」(苦笑)。
くにちゃん 「オレもトイレで、横にぶっ倒れながら、なんでこんな顔の近くにトイレつけとんねん!!ってキレてた ことあったわ。オレら、同類ななあ、わははあ!」
僕は、そんな二人のやりとりに触れるのが、むちゃくちゃ心地よかった。そう言われて、ニコニコしている、あんちゃ ん。突き抜けて大笑いしている、くにちゃん。
そうだ、こうなったら、くにちゃんにも同席願おう。
くにちゃんもよく、円坐における守人としての自分がどう坐っているかを語る時、『歎異抄』の一節にふれて、自分の 心境を語る。くにちゃんが『歎異抄』をどう読んでいるのか、これも改めて聴いてみたい。
そして、あんちゃんとくにちゃんが、『歎異抄』を挟んで何を語るのか、そのやりとりも、聴いてみたい。
森 洋介(フェンスワークス)
あんちゃんこと藤岡延樹氏からの、挨拶文
この度、森洋介・橋本久仁彦・藤岡延樹という、意外な組み合わせの三人による「場」が開かれます。
この三人の共通項は、出身大学が同じということのみならず、「聞く・在る」営みを探究しているということ、そしてその営みにおいて、同じ「人物」に出逢い導かれ育まれてきたということが挙げられます。
その「人物」とは、龍谷大学の教授で浄土真宗の僧侶でもあった故西光義敞先生です。
橋本久仁彦さんにしても、森洋介さんにしても、自身の在り方の根底には、西光先生から滲み出されていた浄土真宗(親鸞)の在り方が、その身に自然に薫習しているように僕は感じています。(だから三人とも個性はバラバラなのに、何となく同じ匂いがするのかもですね)
さて、今回取り上げる『歎異抄』は、明治時代まで一般には公開されず、一種の禁書として扱われてきました。つまりそれほど「危険」な書物だということです。ワクワクしますね(笑)
その『歎異抄』という書物を「手がかり」に、おそらく世界でも稀有で独創的な思想を展開した親鸞や、その流れを受ける者たちが味わっている「現在」を、参加者の皆さんと一緒に、各々自由に分かち合えればと思います。
いわゆる読書会や勉強会ではありませんので、『歎異抄』を知的に理解されたい方は別の講座をお勧めします。
人から人へ。
その灯火が移る。
ご縁のある方とそんな場をご一緒できるだけで、いや、今この企画が実現した時点で僕はもう既に幸いです(^人^) 南無阿弥陀仏
あんちゃん(藤岡延樹)
橋本久仁彦氏からの、挨拶文
「真宗は 野中に立つるひとつ松 よりさわらぬを 他力とぞ呼ぶ」
僕がこの世で面白いと思うもの三つ。円坐と縁坐舞台と影舞。
それぞれ真(まこと)の事実を求めてやまぬ者が寄り合う「舞台道場」です。しかし、これは危険な道場であると思います。
真を求めると、求める自分が偽りであり、求めた真も自分の影だと分かるからです。自分には「偽り」以外なんにも無くなってしまいます。
そんな面白くない「真実」を求める人はいません。
歎異抄が僕にとって「危険」だったのは、その言葉が、僕が半生をかけて学んだ「人を援助するため」のセラピーやカウンセリングとその目的である「心の気づき」や「自己実現」を「偽り」だと断定するからです。
僕がしたことはすべて偽りとなる。それで人が為すと書いて「偽り」と読ませるのでしょうか。
僕が触れたものはすべて嘘いつわりとなり僕が何もしていない時、すべては露(あらわ)です。
「よりさわらぬを 他力とぞ呼ぶ」
僕が生涯かけて欲しかった「自由に生きる」ということは自分を肯定し、好きになり、夢を持つことではなく、
夢に破れ、自分に絶望し、何かをする手足も落ちてしまって無力なダルマさんになることでした。
闇の底に落ちて、落ちるための「底」も取り上げられて、落ちることさえできなくなった「自分」。
これが僕の生涯で一番気持ちのよいことであるとはまったく知りませんでした。
人生を費やしてどんな努力をしてもまったく、髪の毛一本も気づけなかった。
完敗です。
円坐守人、縁坐ヒトガタ、影舞舞い方の道場稽古に日々向かう僕の「始め」にして「終わり」の景色はそんな感じです。
橋本久仁彦(口承即興~縁坐影舞舞踏劇団「坐・フェンス」坐長)
※ 親鸞、『歎異抄について』
●親鸞浄土門の法然の弟子として生き、後に浄土真宗の開祖とされる。 浄土門の信仰を徹底して追究し、「念仏」も「信」も、他力のはからいであると説いた。 思想家としても、人間をありのままの姿を徹底してみつめるその言説が、苦悩して生きる人々を引き付け続けている。
●『歎異抄』について 親鸞の語った言葉を、その弟子である唯円が、書きとめたもの。 親鸞の教えを誤って理解している人がいることを歎き、 唯円が直接親鸞から聴いて心の底に残っている言葉を記している。 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」 「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」 など、徹底して私と言う存在の愚かさにかかわって追究している言葉が連なる。
◉ 場所
studio CAVE(一月二月の会場。三月は申込み後に詳細をお知らせします)